アイヌ医療政策史の研究

http://jsmh.umin.jp/journal/15-2/15-2.pdf#page=53
日本医史学雑誌
第15巻 第2号
昭和44年8月31日発行

11 アイヌ医療政策史の研究放射(誌上発表)
松木明知 ※https://goo.gl/nAURp2
論文DB ※https://goo.gl/FB2P7H

 往時アイヌ民族は本州にも広く分布居住していたが、日本民族が次第にその勢力を拡大伸展するにつれて徐々に北方に圧迫され、現在ではわずか約一万五千人程が北海道の各地に存在しているにすぎない。

 このようなアイヌ民族衰亡の一原因として彼らの衛生状態が極めて悪かったことが指摘される。アイヌに対する政策について政治経済的立場から考察した研究は多いが、医史学的見地から論考した報告は少ない。
 本報告ではアイヌに対する医療政策の史的変遷について次のような時代区分で考察を加えた。

『旧藩時代以前の医療』
 古来アイヌは医師がおらず、他の未開の民族に見られる如くポタラグル、エポタラグル、ヘシュリウタレなど一種のシャーマンとの言うべき人がその任に当たっていた。実際の医療面についての詳細は知るところがない。

『旧藩時代の医療政策』
 寛政年度以前は松前藩はわずなに松前地方を支配しているにすぎなかったため、アイヌに対する医療政策の上からは見るべきものがなく、安政十一年東蝦夷地が幕府領となり約十ヵ所の会所が設けられたが、町医者を雇って和人、アイヌ人の診療に従事せしめた。いわゆる御雇医師で寛政年度に六人、文化年度に十一人、文政年度には十三人と記録されている。

 この頃各場所の運上屋の支配下にあるアイヌは疾病に罹患した際、申し出て医師の治療を受けるよう例年の「オムシャ」の礼で諭告されている。

 この期の蝦夷地における医療政策史上特筆しなければならないのは安政年度の桑田立斎らによるアイヌ強制種痘であり、また億蝦夷地に越冬して各藩戍兵の間に多発した壊血病(俗にはれ病い)の問題であった。壊血病の発生は文化元年から始まったもので幕府も大槻玄沢、多紀元簡などにその対策を命じたほどであった。

『開拓時代の医療政策(明治二年~十五年)』
 明治二年七月蝦夷地が北海道と改称され、開拓使が新たに設けられた。それまでの場所請負制度が廃止されアイヌに対する政策も改革が加えられた。とくに衛生関係のものでは官位に依る無料施療、堕胎禁止、老人幼児に冬季生活資料の給付、困窮者の出生児に対する玄米の給付などがその主なものであった。

 札幌その他二十三ヵ所に病院が設置され、和人アイヌ人にも診療が行われた。

『三県時代の医療政策(明治十五~十八年)』
 明治十五年一月開拓使が廃止され、札幌、函館、根室の三県に分割統治されることになった。松方蔵相のデフレ政策の影響もあったが、土人撫育費は急激に増額され、大規模な勧農政策がとられた。

 札幌県では「旧土人救済方法(一~十八条)」、根室県では「根室県内旧土人救済方法(一~二七条)」を制定しアイヌ救済を企てたが、函館県はアイヌが少なかったためこのような規定は設けなかった。

『道庁時代の医療政策(明治十九年以降)』
 三県制度が廃止され、道庁が札幌に設けられた。それまでの政策によってアイヌは狩猟漁撈生活から農耕生活へと大きな転換を余儀なくされたが、このため広大な耕地を必要とし、「北海道土地払下げ規定」や「地券発行条例」でアイヌの土地を確保しようとしたが、アイヌの怠慢な生活態度のため成功せず、このような実情を背景に明治二十六年からアイヌ保護問題が国会で論議され、遂に明治三十二年に「北海道旧土人保護法」が法律第二七号として成立公布された。

 しかし、これのみでは実際のアイヌ救済に不備であるので別に「旧土人救済規定」を発令した。

 これらの規定によりアイヌは施療を受ける得点を与えられたが、実際に受診する病院が少なかったので、アイヌの多く居住する平取、静内、白老、浦賀に土人病院を大正九年から大正十一年にかけて設置した。いずれも約五〇坪の建物で医員一~二名を配置し入院も可能であった。これでもまだ病院が不足であったので大正十二年北海道庁は一〇〇余ヵ所の「土人救済」を設置しこれに対処した。

 一方、民間においては関場不二彦はジョン・バチェラーと協力して「アイヌ病院」を札幌に設け、明治二十五年から二十八年までの四年間に四〇〇余名のアイヌ患者を治療した。

 以上のような状態が大正末年まで続いた。アイヌの人口は旧藩時代から多少能増減は見られたがほぼ一万五千人を数え、彼らに対する撫育費についてみると、開拓使時代(明治一~十四年)の平均年額は七二四円、三県時代は五一七三円、道庁時代の「旧土人保護法」成立前(明治十九年~三十二年)は平均年額一〇八六円、成立後(明治三十三年~四十年)は七二四五円となっている。すなわち三県時代アイヌに対して勧農作など大規模な政策が企てられたが、統計の受けからもこれが窺われる。

 明治五年の歳出総額一九三万円が明治四十年には二九五万円と約一・八倍になったが、土人撫育費は明治五年の五四五円から明治四十年の一〇三八四円と約二〇倍になっており、このことはアイヌ撫育費をこのように増額しなければならないほど、彼等の生活状態が極度に悪化していったことを示すものであろう。

『総括』
 旧藩時代は豊富な海産資源その他の調達に必要な労働力の供給という面からアイヌ民族の人口減少の一要因であった疫病の予防策がとられた。明治維新後は開拓使などの施策により、それまでの漁撈狩猟生活から農耕生活へと大きな転換を余儀なくされ「旧土人保護法」その他の法律によって種々撫育授産に努力したが、結果的には滅び行く少数民族への慈悲的消極的施策に終止したとも言える。しかし一面に風俗習慣など日本人とは全く異なるアイヌ民族自身にもその責任の一端があったことは否定できない。明治三十二年に制定された「北海道旧土人保護法」は昭和四十三年六月、法律九四合により一部改正されたが、これはとりもなおさず日本人とアイヌ人とを区別したものであり、現在の実情に添わないことは今さら論を俟たない。

2 thoughts on “アイヌ医療政策史の研究

  1. おおおおお、アイヌ医療政策史ですか。貴重な資料をありがとうございます。アタシはどちらかと云うと、こういう話の方が好きです。古病理学の本とか読んだことがありますけど。面白いんですよね。
    これだけ大事にしてもらって、何処に弾圧があったと云うのか……。まぁ利権屋は「差別ガー!」が商売ですけど。

    余談ですが、序文のこの認識が「先住民族」と云うフィクションのストーリーに繋がっているんでしょうね。
    >往時アイヌ民族は本州にも広く分布居住していたが、日本民族が次第にその勢力を拡大伸展するにつれて徐々に北方に圧迫され、現在ではわずか約一万五千人程が北海道の各地に存在しているにすぎない。

    本州に広く分布していたのって、私の母方である東北の蝦夷なんですけど。そして別に、この「蝦夷」と云うのは民族や部族の区分じゃない。「北の蛮族」くらいの意味です。古くは東日本全域が蝦夷地でしたが、次第に東北(陸奥)を指すようになり、江戸期に入ってからは北海道の呼称として定着した。そこから誤解が生じたようです。

    1. コメント有難うございます。やはり、どこかに日本的な良心というか判官贔屓というか、喪われしものへの憧憬やら同情心が、このような「可哀そう」フィルターを掛けてしまうのでしょうね。
      でも、このお医者様が言われるように
      『種々撫育授産に努力したが、結果的には滅び行く少数民族への慈悲的消極的施策に終止したとも言える。しかし一面に風俗習慣など日本人とは全く異なるアイヌ民族自身にもその責任の一端があったことは否定できない。』
      ですし、また、この「昭和44年(1969年)」ですら『これはとりもなおさず日本人とアイヌ人とを区別したものであり、現在の実情に添わないことは今さら論を俟たない。』ですからね。
      それから50年後の2019年の現在「日本人とアイヌ人とを区別」する法律を今さら作るというのですから…

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