日別アーカイブ: 2019年3月28日

斉明四年(658年)阿倍比羅夫の北征により蝦夷は大和に帰順


今、読んでいる「北の環日本海世界 – 書きかえられる津軽安藤氏」という本が面白いので紹介します。

『北の環日本海世界 書きかえられる津軽安藤氏』

この中に、以下の記述が有りました。


この当時に、既に蝦夷は大和に保護される対象であり、 粛慎と呼ばれた北方の蛮族の襲撃に対して、大和から武将を差し向わせて征伐させていた、と在ります。

これを日本書紀で見ると

流石に読み辛いので、読み下し文がこちら。

さらに現代語では

この時点で、 後方羊蹄に政所を設け、以後は 粛慎の侵攻から守ったという記載も、こちらに有りました。


阿倍比羅夫

古代水軍の将。阿倍引田臣,阿倍枚吹とも書く。大化改新後の朝廷の北方進出,蝦夷平定に大きな役割を果した。崇峻2 (589) 年,北陸道に派遣され越などの諸国を巡察。斉明4 (658) 年水軍 180隻を率いて蝦夷を討ち,飽田 (あぎた) ,渟代 (ぬしろ) 2郡を下す。帰順の誓約をした飽田蝦夷恩荷 (おが) に小乙上を授け,渟代,津軽2郡の郡領を設置し,渡嶋 (おしま) の蝦夷を集めて大饗し撫柔。さらに粛慎 (みしはせ) を討ち,生きたクマ2頭,ヒグマの皮 70枚を献じた。このとき比羅夫は「越国守」であった。この地方の豪族であったかと推測される。翌5年再び水軍 180隻を率いて蝦夷を討つ。飽田 (あぎた) ,渟代,津軽3郡ならびに胆振さえ (いぶりさえ) などの蝦夷 400人あまりを集め,大饗して禄を与えた。後方羊蹄 (しりべし) を政所として,郡領をおき帰還。この功により位2階昇進する。同6年3度水軍 200隻を率いて粛慎を討つ。陸奥,渡嶋の蝦夷を使い,妙策を用いて戦い,えびす五十余人を献じた。天智天皇即位の前年 (661) 大華下位,後将軍となり,前将軍阿曇比邏夫 (あずみのひらふ) らとともに百済救援。天智2 (663) 年前将軍上毛野君稚子 (かみつけのきみわかこ) らとともに,後将軍として兵2万 7000を率いて新羅を討ち,白村江 (はくすきのえ) において敗戦。斉明天皇の時代に大錦上,筑紫大宰帥の地位にあった。子に大納言宿奈麻呂がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


面白いですね。蝦夷は大和に侵略されたのでは無く、逆に北方の蛮族である「粛慎」 の侵攻から守られていた、と。


それと、最後に、先の「北の環日本海世界」から、以下を紹介します。


こういう歴史を読み解いていくと、侵略されたとか搾取されたとかでは無く、むしろ初期から共存していた筈のものが、何故に一方的な被害者目線で語られ、和人が侵略したのだから、その責任を取ってアイヌに償え!という文脈で語られなければならないのか、甚だ疑問に思う訳でありました。