日別アーカイブ: 2019年4月3日

『塩の話』

身体の維持に必須であり生活に欠かせない『塩』の話。


『日本には岩塩層や塩湖がほとんどないため、塩は昔から海水を原料にして作られてきました。』
http://www.town.iwanai.hokkaido.jp/?page_id=5481


『北海道と塩の話』
https://www.shiotokurashi.com/kokontozai/hokkaido
『アイヌは塩づくりは行っておらず、彼らの保存食であり交易品であったサケは塩を使わずに加工されていましたが、江戸時代後半になると、サケの塩蔵のため大量の塩が本州から運ばれるようになりました。』
参考文献:『アイヌの歴史』瀬川拓郎、『塩の道を探る』富岡儀八

『近世、千島アイヌは道東アイヌとのいわゆる「沈黙交易(サイレント・トレード。言葉を交わさない交易)」によりラッコの毛皮などと交換に塩や米、酒などを手に入れていました。道東アイヌの交易品の塩、米、酒などもまた和人との交易で手に入れたものでした。』
参考文献:『アイヌの沈黙交易』瀬川拓郎


上記から判るように、各部族集団の生活圏の選択としては、生活を維持する上で欠かせない『塩』が得られる海岸部、もしくは交易品の搬入ルート経由で塩が得られるという条件ありました。

また、古来より、道が切り拓かれる以前は船による物資輸送に依存しており、それが故に、天候に依らず安定した物資輸送が可能となる、新たな陸路を開拓するための『道を切り拓く事業』の記録が多々残されています。
(北海道遺産の増毛山道・濃昼山道の記録など)
http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/soshiki/kikaku/42922.html

逆に言うと、物資の搬入に利用可能な陸路が未発達の内陸部に於いては、水運(河川を遡上する船)が利用可能な下流~中流域(船が遡れる範囲)が、生活圏として選択されていました。

これは縄文遺跡等の多くが沿岸部ないし河口近くの河川流域に集中している事で示される通りで、北海道の縄文遺跡群の所在を見ても、多くは沿岸部あるいは石狩川や十勝川などの大きな河川の流域に有ります。
https://www.jomon-do.org/hokkaido

また、それ以外の内陸では、当時貴重品であった黒曜石が産出するなど「交易上の利点の有る物資が得られる土地」であり、これは北海道で云えば白滝などが相当します。

いずれも何らかの意味で交易に依存しているからこその場所選択であり、逆に言うと、交易に依存しない独立した部族が内陸部に於いて狩猟生活のみで繁栄していたことを示す遺跡は確認されず、つまりは、何れも物資の輸送ルートが有ればこそ成立していた事を示しますし、ましてや米や鉄器など生活必需品を交易に依存していた集団であれば尚更でしょう。

そして、従前は海岸近辺あるいは河川流域で狩猟生活と交易を両立させたうえで生活していた集団が、近郊の開拓が進むにつれて鳥獣類は開拓地を避けるようになり、この結果として沿岸あるいは流域での狩猟対象が減少し、狩猟に依存した生活は困難になっていきます。

しかし、そうした集団が狩猟対象を追って未開拓の山間部に生活拠点を移動しなかった・できなかったのは、生活自体が交易依存であるが故に、交易ルートとしては不便な場所への移動・移住には困難が伴い、たとえ水の確保には困らないとしても、交易が困難な場所に敢えて移動する事を選択しなかったのでしょう。
(例えば北海道であれば山間部と云えども登山道などの随所に水場が有るのは周知のとおりです)

そしてまた、文化的な生活、医療や十分な物資や、安定した食糧供給の有る生活を実現するには、開拓による交通面の整備と田畑の開墾が必須であり、それは前述の通り狩猟生活の終焉を意味するものですが、所詮トレードオフの関係であり、ましてや当時には「開発に伴う環境破壊に関する意識」など無かった訳ですから、現実として「交易を諦めて狩猟のみの生活を選ぶ」か「開拓を受け入れて文化的な生活を選ぶ」かの二者択一であったのでしょう。

ただ、そうした選択を強いられた過去が有るとき、その歴史上の流れとして選択せざるを得なかった史実は、誰かが悪いと糾弾したり、責任を取って賠償せよ等と主張すべきでしょうか。

例えば、日本は明治維新により、それまでの武家社会に終わりを告げ、西洋に追い付け追い越せとばかりに、急ごしらえの「鹿鳴館」や「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と詠われるほど、これまでの日本、旧態は遅れており、西欧化して洋風に倣うことが「文明化」と言われましたが、それは元はと云えば武力で開国を迫った西欧諸国の外圧であり、彼らに対等と思わせるために死にもの狂いで西欧化を推し進めなければならない時代の必然でも有りました。

何しろ、そのように取り繕ってでも「西欧人」と対等の人間だと思われない限り、当時のアジア各地と同じような「簒奪対象たる植民地」の「原住民」に過ぎない扱いを受けてしまうことが明白な状況・時代背景でしたから、この国を守ろうとした熱き志士たちが、それぞれの信念に基づいて「より良い未来」を目指すために対立せざるを得なかった。

そうした時代を指して「外圧さえ無ければ」とか「開国を迫った諸外国が悪い」とか、ましてや「鎖国をして、独立して生活していた先住民たる日本の文化や歴史を無視し、一方的に開国を迫って西欧化という選択肢以外を許さなかった西欧人は、我が国に対する文化的侵略者である」などと云う主張を行ったとして、そこに正当性があるのでしょうか。

そしてまた、現在の様に「街道」に沿って街並みが広がり、その背後には広大な田畑が広がる「北海道らしい風景」は、開拓によって切り拓かれたものであり、それが無ければ、うっそうとした原野と笹薮の拡がる山林のままであった事でしょう。
それは鳥獣にとってこそ天下であったかもしれませんが、とても人々が文化的に暮らせる環境では無く、その場に有るもので作った「ロハスな暮らし」では有りましょうが、それは健常者にとっての世界でしか有りません。
万が一、病や怪我に臥せても医者など居らず、沿岸部の大きな町に医者が居たとしても、そこまで病人を運ぶ道も無く、ただ山道を通り抜けられる壮健なものだけが生きていける過酷な環境の「自然な暮らし」です。

先住民は、そうした暮らしを選択し続けるべきだったのでしょうか?