「研究資料」カテゴリーアーカイブ

『塩の話』

身体の維持に必須であり生活に欠かせない『塩』の話。


『日本には岩塩層や塩湖がほとんどないため、塩は昔から海水を原料にして作られてきました。』
http://www.town.iwanai.hokkaido.jp/?page_id=5481


『北海道と塩の話』
https://www.shiotokurashi.com/kokontozai/hokkaido
『アイヌは塩づくりは行っておらず、彼らの保存食であり交易品であったサケは塩を使わずに加工されていましたが、江戸時代後半になると、サケの塩蔵のため大量の塩が本州から運ばれるようになりました。』
参考文献:『アイヌの歴史』瀬川拓郎、『塩の道を探る』富岡儀八

『近世、千島アイヌは道東アイヌとのいわゆる「沈黙交易(サイレント・トレード。言葉を交わさない交易)」によりラッコの毛皮などと交換に塩や米、酒などを手に入れていました。道東アイヌの交易品の塩、米、酒などもまた和人との交易で手に入れたものでした。』
参考文献:『アイヌの沈黙交易』瀬川拓郎


上記から判るように、各部族集団の生活圏の選択としては、生活を維持する上で欠かせない『塩』が得られる海岸部、もしくは交易品の搬入ルート経由で塩が得られるという条件ありました。

また、古来より、道が切り拓かれる以前は船による物資輸送に依存しており、それが故に、天候に依らず安定した物資輸送が可能となる、新たな陸路を開拓するための『道を切り拓く事業』の記録が多々残されています。
(北海道遺産の増毛山道・濃昼山道の記録など)
http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/soshiki/kikaku/42922.html

逆に言うと、物資の搬入に利用可能な陸路が未発達の内陸部に於いては、水運(河川を遡上する船)が利用可能な下流~中流域(船が遡れる範囲)が、生活圏として選択されていました。

これは縄文遺跡等の多くが沿岸部ないし河口近くの河川流域に集中している事で示される通りで、北海道の縄文遺跡群の所在を見ても、多くは沿岸部あるいは石狩川や十勝川などの大きな河川の流域に有ります。
https://www.jomon-do.org/hokkaido

また、それ以外の内陸では、当時貴重品であった黒曜石が産出するなど「交易上の利点の有る物資が得られる土地」であり、これは北海道で云えば白滝などが相当します。

いずれも何らかの意味で交易に依存しているからこその場所選択であり、逆に言うと、交易に依存しない独立した部族が内陸部に於いて狩猟生活のみで繁栄していたことを示す遺跡は確認されず、つまりは、何れも物資の輸送ルートが有ればこそ成立していた事を示しますし、ましてや米や鉄器など生活必需品を交易に依存していた集団であれば尚更でしょう。

そして、従前は海岸近辺あるいは河川流域で狩猟生活と交易を両立させたうえで生活していた集団が、近郊の開拓が進むにつれて鳥獣類は開拓地を避けるようになり、この結果として沿岸あるいは流域での狩猟対象が減少し、狩猟に依存した生活は困難になっていきます。

しかし、そうした集団が狩猟対象を追って未開拓の山間部に生活拠点を移動しなかった・できなかったのは、生活自体が交易依存であるが故に、交易ルートとしては不便な場所への移動・移住には困難が伴い、たとえ水の確保には困らないとしても、交易が困難な場所に敢えて移動する事を選択しなかったのでしょう。
(例えば北海道であれば山間部と云えども登山道などの随所に水場が有るのは周知のとおりです)

そしてまた、文化的な生活、医療や十分な物資や、安定した食糧供給の有る生活を実現するには、開拓による交通面の整備と田畑の開墾が必須であり、それは前述の通り狩猟生活の終焉を意味するものですが、所詮トレードオフの関係であり、ましてや当時には「開発に伴う環境破壊に関する意識」など無かった訳ですから、現実として「交易を諦めて狩猟のみの生活を選ぶ」か「開拓を受け入れて文化的な生活を選ぶ」かの二者択一であったのでしょう。

ただ、そうした選択を強いられた過去が有るとき、その歴史上の流れとして選択せざるを得なかった史実は、誰かが悪いと糾弾したり、責任を取って賠償せよ等と主張すべきでしょうか。

例えば、日本は明治維新により、それまでの武家社会に終わりを告げ、西洋に追い付け追い越せとばかりに、急ごしらえの「鹿鳴館」や「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と詠われるほど、これまでの日本、旧態は遅れており、西欧化して洋風に倣うことが「文明化」と言われましたが、それは元はと云えば武力で開国を迫った西欧諸国の外圧であり、彼らに対等と思わせるために死にもの狂いで西欧化を推し進めなければならない時代の必然でも有りました。

何しろ、そのように取り繕ってでも「西欧人」と対等の人間だと思われない限り、当時のアジア各地と同じような「簒奪対象たる植民地」の「原住民」に過ぎない扱いを受けてしまうことが明白な状況・時代背景でしたから、この国を守ろうとした熱き志士たちが、それぞれの信念に基づいて「より良い未来」を目指すために対立せざるを得なかった。

そうした時代を指して「外圧さえ無ければ」とか「開国を迫った諸外国が悪い」とか、ましてや「鎖国をして、独立して生活していた先住民たる日本の文化や歴史を無視し、一方的に開国を迫って西欧化という選択肢以外を許さなかった西欧人は、我が国に対する文化的侵略者である」などと云う主張を行ったとして、そこに正当性があるのでしょうか。

そしてまた、現在の様に「街道」に沿って街並みが広がり、その背後には広大な田畑が広がる「北海道らしい風景」は、開拓によって切り拓かれたものであり、それが無ければ、うっそうとした原野と笹薮の拡がる山林のままであった事でしょう。
それは鳥獣にとってこそ天下であったかもしれませんが、とても人々が文化的に暮らせる環境では無く、その場に有るもので作った「ロハスな暮らし」では有りましょうが、それは健常者にとっての世界でしか有りません。
万が一、病や怪我に臥せても医者など居らず、沿岸部の大きな町に医者が居たとしても、そこまで病人を運ぶ道も無く、ただ山道を通り抜けられる壮健なものだけが生きていける過酷な環境の「自然な暮らし」です。

先住民は、そうした暮らしを選択し続けるべきだったのでしょうか?

国会における単一民族・大和民族発言について

過去の議事録を検索してみると、確かに国会での発言には単一民族や大和民族と云う言葉が使われているケースが多々あります。

そこで、どういう用語として用いられているのか、そうした根拠を解説している質疑を探したところ、こちらに有りました。


第107回国会 国民生活に関する調査会 第2号
昭和六十一年十一月五日(水曜日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/107/1476/10711051476002a.html

委 員:及川 一夫君
参考人:放送大学教授 加藤 秀俊君

○及川一夫君 加藤先生、大変ありがとうございました。
 私は社会党に所属している議員でございますが、与えられた時間が二十分ということになっておりまして、興味ある国際化の問題について大変質問したいことが多いんでありますけれども、限られた時間でございますから、より深めたいという意味でお伺いをさしていただきたいと存じます。
 まず、先生の方から人種と民族の違いを明確にされまして国際化という意味をお話しいただいたんですが、我々の場合には、振り返ってみると人種も民族もごちゃまぜにして、要するに白人、黄色人種、黒人、その違いはわかっているんですが、それ自体が民族であるかのような誤解が非常に多いというふうに思うんです。そのことは逆に言うと、民族というものを何をもってA、B、Cの民族に振り分けていくのか、定義といいますか、基準といいますか、標準といいますか、そういうものがこれまで説明されてはいなかったんではないかというふうに思うんですが、先生の立場から見て、民族の違いというものは、どういうものを尺度にしてアジア民族であるとか、大和民族であるとかいうふうに言うのかということについてお伺いをしたい。
 それから、単一民族ということを国会でも中曽根総理が御発言になるものですから、またそういう発言があってアイヌの方々が単一民族ではないということを言われ、私たちもはっとさせられるものが実はあったわけなんであります。我々は教育としても大和民族単一民族ということで言われてきたような気がしますし、それを当然のように思い込んできたという点、これは教育のしからしむるところもあるのでしょうが、日本は単一民族でないとすれば、アイヌだけなのかどうなのか。日本民族が単一民族でないとすれば、幾つの民族が一つになって日本国というものを形成しているのかという点、先生の立場から見ておわかりでしたらお教えいただきたいものだなというふうに実は思います。
(中略)

○参考人(加藤秀俊君) ありがとうございました。限られた時間でございますので、多少簡略化いたしますことをお許しいただきたいと思います。
 及川先生の今の御質問でございますけれども、第一、第二を取りまぜて申しますと、民族というものをどう定義するかということでございますが、学問的に申しますと、同一の言語を使って、言語というのは非常に大事な文化要素でございますが、同一の言語を使い、同一の生活様式を分かち合っている集団であって、多くの場合、多少一つ二つの例外はございますけれども、一定の地理的なテリトリーを持っている、そこに永住しているということでございます。
 したがって、先ほど申しましたコーカソイド、白色人種でございます、の中のゲルマン民族ですね、これは一般に、本当はもっと正確に言うとゲルマン民族のサブにあるんですけれども、ゲルマン民族を仮にドイツ人というふうに呼びましょう。それからアングロサクソン、これが大体同じ人種でありながらまた一つの民族を形成しております。それから、ケルト民族というのも、これはケルト語というのは英語なんかと違いますので、そういうことでございます。つまり、言語とそれから生活様式を長期にわたって分かち合ってきた集団、そしておおむね大小の差こそあれテリトリーを持っているということでございます。全くこのテリトリーを持たないのが例えばユダヤ人といったようなもので、これがユダヤ民族問題を起こしていることは申し上げるまでもございません。
 日本の場合でございますけれども、文化人類学の方ではアシミレーション、つまり同化という言葉を使いまして、たとえ民族のオリジンが外国人であっても、一つの文化の中でだんだん揺さぶられているうちに、二代、三代かかって言語、生活様式などが身についてまいりますと、その民族に同化されたということになるわけでございますから、したがって日本民族が単一民族であるというのは、今申し上げた意味から申しますと条件を満たしているのではないか。ただし、ベトナム難民とかそれから中国残留孤児とか、そうした人たちがまた日本国内に居住され始めますと、そこには異なった民族集団というものが混在するということになるかと存じます。
(中略)


上記が国会答弁の内容になります。

もちろん「学問的な解釈に基づく定義」ですから、その後の知見・研究によって解釈が変われば、これらの内容は現在の定義とは一致しない部分も有るかも知れません。

ただ、当時の知見の上では「二代、三代かかって言語、生活様式などが身についてまいりますと、その民族に同化されたということになるわけでございますから、したがって日本民族が単一民族であるというのは、今申し上げた意味から申しますと条件を満たしているのではないか。

と述べられており、これに基づいて日本国民を単一民族と呼んで差支えないのではないか、という判断が示された事と、そして、この解釈であれば「ただし、ベトナム難民とかそれから中国残留孤児とか、そうした人たちがまた日本国内に居住され始めますと、そこには異なった民族集団というものが混在するということになるかと存じます。 」となり、それ以外については「異なる民族では無い = 同じ民族」として、国会用語の「単一民族」が用いられたのでしょう。

シャクシャインの真実とは?

日本最大の辞書・辞典検索サイト「ジャパンナレッジ」より


日本大百科全書 『シャクシャインの戦 』

1669年(寛文9)、東蝦夷地(ひがしえぞち)シブチャリ(北海道新ひだか町)に拠点をもつアイヌの首長シャクシャインが起こした蜂起(ほうき)。
この蜂起は東西蝦夷地の各地に波及し、鷹待(たかまち)(鷹匠)や商船の船頭など日本人390人余(『津軽一統志(つがるいっとうし)』)が殺された。
松前(まつまえ)藩への攻撃も企てたが、国縫(くんぬい)(長万部(おしゃまんべ)町)で防ぎ止められ退いた。

この戦いの前段には、松前藩への接近策をとるオニビシ(ハエを拠点とするハエクルの首長)との抗争があった。
この抗争のなかでオニビシが殺され、ハエクル一族は松前藩に援助要請の使者を送り、援助を求めたが成功せず、使者も帰路に病死した。
それが、松前藩による毒殺であるとの風説となって対日本人蜂起の直接のきっかけとなった。
…(後略)


改訂新版・世界大百科事典

1669年(寛文9)6月,北海道日高のシブチャリ(現新ひだか町,旧静内町)を拠点に松前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ民族の蜂起。
近世初頭以来日高沿岸部のシブチャリ地方のアイヌ(メナシクル(東の人の意)の一部)とハエ(現日高町,旧門別町)地方のアイヌ(シュムクル(西の人の意)の一部)との漁猟圏をめぐる争いが続いていたが,1668年4月,ついにシブチャリ・アイヌの首長シャクシャインがハエ・アイヌの首長オニビシを刺殺するという事件に発展した。
そのためオニビシ方のアイヌは藩庁に武器援助を要請したが,藩側に拒否されたうえ,使者のウタフが帰途疱瘡にかかり急死した。
このウタフ死亡の報は,アイヌの人たちに松前藩による毒殺として伝えられ,この誤報を契機に両集団間の紛争はまったく新たな方向に発展した。
すなわち,シャクシャインが東西両蝦夷地のアイヌに檄をとばし,反和人・反松前の蜂起を呼びかけたため,69年6月,東は白糠(しらぬか),西は増毛(ましけ)(ただし石狩アイヌは不参加)に至る東西蝦夷地のアイヌが一斉に蜂起,和人の商船や鷹待らを襲撃し,東蝦夷地153人,西蝦夷地120人の和人が殺害された。

 このようにシャクシャインの蜂起は,系譜的にはアイヌ民族内部の争いを前提とし,ウタフ毒殺という誤報とシャクシャインの檄を大きな契機にして,民族内部の争いから松前藩に対する全民族的な蜂起へと一挙に質的に変化発展したところに大きな特徴がある。
その原因について近世の記録では,和人鷹待や金掘人夫の策動とするものもあるが,事の本質は次の2点にあった。
第1は,松前藩の成立と展開,とくに商場知行制と蝦夷地における砂金採取場や鷹場の設置によって,アイヌ民族の収奪や漁猟場の破壊が一段と進み,アイヌ民族はかつてない民族的危機に遭遇していたこと。
第2は,アイヌ社会自体が収奪と抑圧の嵐にさらされつつも,和人との関係はいまだ交易を主体にしていただけに,アイヌ民族本来の共同体はまだ破壊されていず,条件さえ整えば共同体首長のもとに立ちあがれるだけの力を内包していたことである。
それだけに,この蜂起は松前藩のみならず幕府にも大きな衝撃を与え,幕府は松前氏の一族松前八左衛門泰広(旗本)に出陣を命じ,津軽藩にも出兵を命じた。
幕府がアイヌ民族の蜂起に直接的な指揮権を発動したのはこれが最初である。
松前藩は急きょ軍隊を編成して鎮圧にのりだし,当初は苦戦したが,鉄砲と毒矢の差,アイヌ勢の分断策もあり,アイヌの勢力はしだいに弱まり,10月シャクシャインは松前軍の奸計でピポク(現新冠町)に誘殺された。
その後アイヌの降伏が続出し,71年に最終的に鎮圧された。
この過程で松前藩はアイヌに対し絶対服従を誓わせた7ヵ条の起請文を強要したが,これを契機に松前藩のアイヌ民族に対する政治経済的支配は一段と強化された。

[榎森 進][索引語]シブチャリ メナシクル ハエ(蝦夷) シュムクル シャクシャイン オニビシ(人名) ウタフ 松前八左衛門泰広 ピポク©Heibonsha Inc.


このように、決して和人対アイヌが直接の契機ではなく、むしろアイヌ同士の争いに松前藩が巻き込まれた形で始まった「乱」に過ぎないのです。

斉明四年(658年)阿倍比羅夫の北征により蝦夷は大和に帰順


今、読んでいる「北の環日本海世界 – 書きかえられる津軽安藤氏」という本が面白いので紹介します。

『北の環日本海世界 書きかえられる津軽安藤氏』

この中に、以下の記述が有りました。


この当時に、既に蝦夷は大和に保護される対象であり、 粛慎と呼ばれた北方の蛮族の襲撃に対して、大和から武将を差し向わせて征伐させていた、と在ります。

これを日本書紀で見ると

流石に読み辛いので、読み下し文がこちら。

さらに現代語では

この時点で、 後方羊蹄に政所を設け、以後は 粛慎の侵攻から守ったという記載も、こちらに有りました。


阿倍比羅夫

古代水軍の将。阿倍引田臣,阿倍枚吹とも書く。大化改新後の朝廷の北方進出,蝦夷平定に大きな役割を果した。崇峻2 (589) 年,北陸道に派遣され越などの諸国を巡察。斉明4 (658) 年水軍 180隻を率いて蝦夷を討ち,飽田 (あぎた) ,渟代 (ぬしろ) 2郡を下す。帰順の誓約をした飽田蝦夷恩荷 (おが) に小乙上を授け,渟代,津軽2郡の郡領を設置し,渡嶋 (おしま) の蝦夷を集めて大饗し撫柔。さらに粛慎 (みしはせ) を討ち,生きたクマ2頭,ヒグマの皮 70枚を献じた。このとき比羅夫は「越国守」であった。この地方の豪族であったかと推測される。翌5年再び水軍 180隻を率いて蝦夷を討つ。飽田 (あぎた) ,渟代,津軽3郡ならびに胆振さえ (いぶりさえ) などの蝦夷 400人あまりを集め,大饗して禄を与えた。後方羊蹄 (しりべし) を政所として,郡領をおき帰還。この功により位2階昇進する。同6年3度水軍 200隻を率いて粛慎を討つ。陸奥,渡嶋の蝦夷を使い,妙策を用いて戦い,えびす五十余人を献じた。天智天皇即位の前年 (661) 大華下位,後将軍となり,前将軍阿曇比邏夫 (あずみのひらふ) らとともに百済救援。天智2 (663) 年前将軍上毛野君稚子 (かみつけのきみわかこ) らとともに,後将軍として兵2万 7000を率いて新羅を討ち,白村江 (はくすきのえ) において敗戦。斉明天皇の時代に大錦上,筑紫大宰帥の地位にあった。子に大納言宿奈麻呂がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


面白いですね。蝦夷は大和に侵略されたのでは無く、逆に北方の蛮族である「粛慎」 の侵攻から守られていた、と。


それと、最後に、先の「北の環日本海世界」から、以下を紹介します。


こういう歴史を読み解いていくと、侵略されたとか搾取されたとかでは無く、むしろ初期から共存していた筈のものが、何故に一方的な被害者目線で語られ、和人が侵略したのだから、その責任を取ってアイヌに償え!という文脈で語られなければならないのか、甚だ疑問に思う訳でありました。

法務省見解が示されました


題名  :Re: 旧戸籍に記載の族称が差別・人権侵害に繋がりかねない件について
送信者 :法務省(送信専用)
受信日時:2019/03/26 16:14

 合田一彦 様

 3月17日付けのメールを拝見いたしました。
 除籍及び改製原戸籍に記載のある族称等については,その謄抄本を作成する際に
これを謄写しない取扱いであり,族称等が判別できないよう除籍及び改製原戸籍の塗抹処理が行われております。 

 法務省民事局民事第一課


— Original Message —
送信日付:2019/03/17
題名  :旧戸籍に記載の族称が差別・人権侵害に繋がりかねない件について
区分  :(意見・提案)
本文  :

ご担当者様

掲題のことですが、過去の国会答弁にて、法務省からの見解としては一貫として「差別に繋がりかねない旧戸籍の記載は塗り潰し、新しく戸籍を発行する際には転載しない」というお話だったと記憶しております。

ですが、こちらのサイトの「記載例」を見ると、塗り潰しでは無く「抹消線」での「取り消し」扱いで、元の族称が判別できる状態での例が掲載されています。

https://sites.google.com/site/kosekinochishiki/hu-ji-tong-da/chu-ji-gai-zhi-yuan-hu-jini-ji-zaisareteiru-zu-cheng-dengno-chu-linitsuite

これでは、例えば「旧土人」や「アイヌ」や「エタ・穢多」といった、人権侵害に繋がりかねない差別的な記載が有ったかどうか、読み取れてしまいます。

この通達が本当に行われているのかどうか、またその内容はサイト掲載の通りなのかどうか判りませんが、事実であれば従来の国会答弁のお話と矛盾が有るのではないでしょうか。

確認の上、ご教示頂ければ幸いです。


(ご注意)
このメールの差出人メールアドレスは送信専用であり,受信することはできません。
法務省に対するご意見・ご提案がございましたら,次のURLをクリックして表示されるメールフォームからお願いします。
 https://www.moj.go.jp/mojmail/kouhouinput.php

戸籍の「アイヌ」記載問題について.2

第107回国会 社会労働委員会 第3号
昭和六十一年十一月二十五日(火曜日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/107/1200/10711251200003a.html
(議事録より抜粋)


○千葉景子君 これは戸籍の関係になるかと思いますけれども、戸籍の面で現在でも残っているような差別あるいは特別な措置、こういうものはございませんでしょうか。法務省にお伺いいたします。

○説明員(細川清君) お答え申し上げます。
 現行の戸籍制度上あるいは実務上におきましては、ウタリ出身の方々につきまして一般の場合と取り扱いが違うということは全くございません。

○千葉景子君 ちょっと私が調査したところによりますと、戸籍上、旧土人給与地戸籍より入籍とか、こういう書き方が残っているのではないだろうかと思われるんですけれども、その辺はいかがでしょうか。

○説明員(細川清君) お答え申し上げます。
 今御指摘の北海道旧土人保護法によりまして下付された土地につきましては、通常の行政区画の中に通常ございます町名、字名、地番というものは古い時代には付されていなかったという事情がございます。したがいまして、戸籍上非常に古い大正年間ごろまでの戸籍におきましては、その場所を特定するために北海道旧土人給与地で出生というような記載がなされた事例がございます。ただ、この点につきましては現行の取り扱いでは、その出生地につきましては具体的な場所を記載するということではなくて、最小行政区画を記載するようになっております
 そしてまた、昭和四十七年ごろにこの点の古い戸籍が問題になりましたので、私どもといたしましてはそういう記載は必ずしも適当でないというふうに考えましたので、この点の戸籍を再製するときはその記載を除去しまして、現行の取り扱いに応じて最小行政区画だけを記載するようにと、そういう指導をしておるわけでございます。


戸籍の「アイヌ」記載問題について

第072回国会 法務委員会 第7号
昭和四十九年二月二十日(水曜日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/072/0080/07202200080007a.html
(議事録より抜粋)


○川島(一)政府委員 こういった問題につきましては、最初に申し上げましたように、民事行政審議会で十分検討をしていただければ、それに基づいた処置をとることになろうか、こういうふうに考えておるわけであります。
 どういう点に問題があるかということでございますが、最近プライバシーの問題がいろいろやかましくなってきておりまして、他人の戸籍を見て、それを一般に情報として提供する、こういうことが問題になったこともございます。それから、一つは同和の関係がございます。同和問題との関係で、戸籍を自由にだれにでも閲覧させるということは、場合によっては個人のあまり知らしたくない事項を人に知られる結果になるから、若干そういった点についての配慮を加えてほしい、こういった問題もあるわけでございます。

○稲葉(誠)委員 除籍謄本の古いのをずうっとさかのぼっていくわけでしょう。いきますと、あれを整理したのはいつでしたっけね。大正四年か何かに整理しましたね。残っているのがあって、何ですか、壬申戸籍というのですか、あれはどういうふうなものですか。
 それから、ちょっと一部のあれに出ていたのですが、たとえば北海道における民族、そういう人たちのことを何か別な形で表示しているのが残っているのですか。そこはどういうふうに法律的になって、実際はどういうふうになっているのですか。

○川島政府委員 まず北海道の問題から申し上げますと、昔アイヌ人に土地を給与した、土地を与えたという例がございます。その場合に出生地として土人給与地において出生、こういう記載が戸籍にされたことがございます。そうしますと、それを見ると、この人はアイヌであるということが戸籍の上でわかってしまう。これは、場合によってはその本人としてぐあいが悪いということもございますので、そういう戸籍を直してほしいという要望がございまして、これはそのように処置いたしたわけでございます。
 それから壬申戸籍の問題でありますが、これは明治五年式の戸籍にいろいろ俗称というものが書いてあったわけですが、その俗称の記載が相当まちまちでございまして、中にはあまり好ましくない表示がされておるものがあるということでございました。そこで、明治五年式戸籍というのは明治十九年にまた改められまして、取り扱いが変わったわけでありますが、明治五年から十九年までの間につくられました戸籍が壬申戸籍でありまして、これにつきましてはそういういろいろ問題がございますので、法務省といたしましては、この保管については特別な取り扱いをせよということにいたしております。現在閲覧は一切許さない。それから、そういう戸籍は全部一カ所にまとめて、そうして包装して封印をするという厳重な取り扱いをしておるわけでございます。保存期間が満了いたしまして、すでに廃棄したものもございます。そういう実情でございます。

○稲葉(誠)委員 それから、どこどこの刑務所で出生したというのはまだ戸籍に載っているのですか。それはいまやめたの。壬申戸籍というのはいつごろ全部破棄になる見込みなんですか。

○川島政府委員 戸籍の保存期間は、除籍になりましてから八十年ということになっております。したがいまして、まだ残っておるものもあるようでございますが、大体そういうことでございます。
 それから、刑務所で出生したというような記載でございますが、そういう記載のあるのがかつてはございました。現に除籍などにそういう記載が残っておりますが、そういうものにつきましては、戸籍謄本を発行する場合には写してはならないという取り扱いにいたしております


アイヌ修学資金制度の問題

北海道議会議事録
平成22年第1回予算特別委員会第2分科会-03月18日-03号
より


北海道議会議事録
平成22年第1回予算特別委員会第2分科会-03月18日-03号

◆(滝口信喜委員) それでは次に、アイヌ政策の推進についてお尋ねをいたしたいと思います。
 御承知のとおり、国のアイヌ政策推進会議が開かれておりまして、先般、二つの部会が開かれたというふうに聞いておりますけれども、今後どのような検討が行われるのか、まず最初に伺っておきたいと思います。

○(田村龍治委員長) 総務課参事村井篤司君。

◎(村井総務課参事) アイヌ政策推進会議についてでございますが、国の有識者懇談会の報告を受けまして、総合的かつ効果的なアイヌ政策を推進するため、新たに、アイヌ政策推進会議が設置され、ことし1月29日に第1回目の会議が開催されたところでございます。
 また、3月11日には、民族共生の象徴となる空間と、北海道外に住むアイヌの生活実態調査を検討するための第1回作業部会が開催されたところでございます。
 民族共生の象徴となる空間の作業部会では、この部会のアイヌ民族関係者から、その意義や必要性などについて提案をいただき、それをもとに、外部の専門家からのヒアリングや、先進地事例の整理などを行った上で、象徴となる空間の具体像の検討などを今後1年程度かけて行うこととなったところであります。
 また、北海道外のアイヌの生活実態調査の作業部会では、社会調査などの専門家や、これまで生活実態調査を実施してきた道に対しましてもヒアリングが行われまして、調査方法や項目が確定された後、道外の生活実態調査を来年度中に実施することとなったところでございます。
 以上でございます。

◆(滝口信喜委員) 今お話があったように、二つの部会は、民族共生の象徴となる空間という、いわゆる文化の面といいましょうか、こういうこと、もう一つは、道外のアイヌの生活実態を調査するということでありまして、生活支援にこれからどう取り組んでいくかということで、新しい流れに大きく進んでいくというのが今の状況であります。
 そこで、今日まで議会の場でもさまざま問題になってまいりましたけれども、アイヌ子弟大学等修学資金等貸付制度について伺っておきたいと思います。
 最初に、この資金については、高校も含めてでありますけれども、やはり何としても、大学への進学率を向上させていこうということであります。当然、アイヌ施策としては、教育、就労、人権というのが大きな課題になっております。これを、さまざまな事業や施策を通してどうやっていくかということであります。
 それで、道が行う教育支援策というのが果たしてきた役割は極めて大きいと私は考えていますけれども、この制度の創設の理念をまず最初に伺っておきたいというふうに思います。

◎(村井総務課参事) アイヌ子弟に係る修学資金制度創設の理念についてでございますが、この制度は、道内に居住するアイヌの子弟で、大学教育を受ける能力を持ちながら、経済的理由により当該教育を受けることが困難な者に対し、その修学に必要な資金及び入学に必要な資金を提供することによりまして、アイヌ子弟の教育の振興に資することを目的に、昭和51年度に、国庫補助を受け、給付制度として開始し、昭和57年度に貸付制度に改正し、今日に至っているところでございます。
 以上でございます。

◆(滝口信喜委員) そういうことが理念だということであります。
 そこで、このたび、修学資金制度を改正するというふうに聞いておりますが、この理由──道の政策評価制度がありますけれども、昨年、この事業は、私の調べたところによれば、継続すべきということになっているはずであります。
 さらに、この修学資金制度の改正の内容をお聞きしますと、返還免除の基準額の見直しというものがあるようであります。これは、日本学生支援機構奨学金の返還猶予の基準である300万円を用いているということになっているようでありますけれども、あわせて、どういう内容か、伺っておきたいと思います。

○(田村龍治委員長) 環境生活部次長笠原清孝君。

◎(笠原環境生活部次長) 修学資金制度の改正の内容についてでございますけれども、当該制度を、実質的に返還が行われるような制度に改正するといたしましても、道内のアイヌの人たちの厳しい生活実態を踏まえますと、減免規定も必要であるというふうに考えているところでございます。
 減免規定を設けるに当たりましては、その基準をどこに置くかにつきまして、さまざまな角度から検討いたしました。
 その結果、日本学生支援機構の奨学金制度におきまして、生活困窮者に係る返還の猶予基準を年収300万円以下としていることを参考にいたしまして、北海道労働局が行いました、大学新卒者の初任給に関する統計調査のほか、北海道職員でございますとか札幌市職員の大卒初任給などを比較検討しました結果、それぞれが300万円程度ということでございましたものですから、減免基準といたしまして、年収300万円以下とすることが適当であると判断したものでございます。
 以上でございます。

◆(滝口信喜委員) 今、二つ聞きました。
 まず、修学資金制度改正の理由は何かです。そして、その内容については、聞くところによると、今言われた奨学金の金額ということでありますので、最初の、改正の理由について、もう一度お尋ねします。

◎(笠原環境生活部次長) 申しわけございません。
 修学資金制度改正の理由についてでございます。
 本制度は、昭和57年度に貸付制度に改正を行ったものでございますが、ほとんどの借り受け者が減免規定の適用を受けまして、給付に近い形となっておりましたことから、これまでも、減免規定の見直しでありますとか、貸付期間を正規の修業年限とするなど、改正を行ってきたところでございます。
 また、昨年、政策評価におきまして審査したわけでございますけれども、これは、本制度の必要性について審査をさせていただきまして、その結果、事業は継続することが必要というふうに判断をいたしたものでございます。
 以上、申し上げましたように、本制度につきましては、その都度、改正を行ってきておりますけれども、給付に近い形での運用は解消されておりませんで、所管の文部科学省からは、その後におきましても、返還の減免基準の見直しなどについて指摘をされてきているところでございます。
 このような状況に加えまして、この修学資金制度が、将来、現行の内容のままで全国展開されることは、国民の理解を得ることが極めて難しいというふうに思われましたことから、平成21年の第1回及び第2回定例会での議論を踏まえまして、実質的に返還が行われるような制度に改正をすることとしたものでございます。
 以上でございます。

◆(滝口信喜委員) 今、制度については、その都度、改正を行ってきたということでありましたけれども、具体的、時系列的に、この制度の改正についてお示しをいただきたいと思います。

◎(村井総務課参事) 制度改正の具体的な流れについてでございますけれども、時系列的に申し上げますと、まず、平成14年度に、貸し付けの申請書に経費の内訳書を添付させるというふうな改正を行ったところでございます。
 次に、平成15年度には、先ほどの答弁の中にもございました、貸付期間を大学等の正規の修業年限以内とするような改正を行ったところでございます。
 また、平成19年度には、これも先ほどの答弁にございました減免基準につきまして、生活保護法の保護基準により算定いたします最低生活費の年額の1.7倍を1.5倍に改正したところでございます。
 また、平成20年度には、減免の判定につきまして、平成21年3月の卒業生の方から、卒業後のほか、3年を経過した後にも再度行うように改正したところでございます。
 また、平成21年度には、申請の際に、申請者本人が貸付制度の対象者であることを申し入れていただく申出書を添付していただくように改正を行ったところでございます。
 以上でございます。

◆(滝口信喜委員) その都度、改正をしたというふうに言っていますけれども、今お聞きをしますと、減免基準の関係については、1.7倍を1.5倍に改正したということだろうと思うのです。
 それで、今、1.5倍というのは585万円だとお聞きをしておりますけれども、1.7倍を1.5倍に改正する前の数字というのはどの程度だったのですか。

◎(村井総務課参事) 減免基準の算定に当たりまして乗する係数の関係についてでございますけれども、ただいま委員からお話があった点につきましては、試算いたしますと、1.7を乗じた場合には620万円ということでございます。
 以上でございます。

◆(滝口信喜委員) そうしますと、平成19年度に、620万円から585万円に変えたということであります。ですから、昭和57年度から貸付制度になって、平成19年度の改正までは、620万円でずっと来ていた、こういうことだろうというふうに思います。
 それで、貸付制度に変わるときに、ほとんどの借り受け者が減免規定の適用を受け、給付に近い形となっていたという話もございます。ですから、620万円ということであれば、当然、当初から予測できた金額ではないかなと思います。
 しかし一方では、制度の創設の理念として、アイヌの人方の厳しい生活実態から、こういう制度でいこうということで進めてきたのではないかと思います。
 そこで、文科省から指摘をされたということでありますけれども、いつごろ指摘をされたのか。

◎(村井総務課参事) 文部科学省からの指摘についてでございますけれども、国の平成10年度予算要求時の大蔵省の指示に基づきまして、平成9年度に、文部科学省のほうから御指示などがありましたことを初めといたしまして、平成13年度、17年度、18年度など、たびたび御指摘を賜っているところでございます。
 以上でございます。

◆(滝口信喜委員) それでは、585万円以上の所得がありながら、返還をしていないという件数があるのかどうか。一方では、585万円を超えて、返還している実績もあわせてお尋ねをしたいと思います。

◎(村井総務課参事) 返還の件数についてでございますけれども、現在まで、3名、返還をしていただいている方がおられるところでございますけれども、このうち、基準額を超えたことによる返還の事例はないものでございます。
 以上でございます。

–(後略)–

明治・大正の新聞資料

アイヌ人保護の請願に代表が上京(明治28年1月15日 報知)

愁訴に政治家は耳を傾けよ(明治28年1月27日 国民)

北海道土人保護法の審議(明治28年2月27日 時事)

保護法案審議(明治28年3月15日 時事), 北海道庁の暴政を非難(明治28年3月15日 国民)

保護法廃案となり、有志が保護会設立(明治28年5月1日 時事)


保護条例制定に向かう(明治30年10月9日 時事)


樺太
原住民、移住民、追放人らの現状(明治31年2月4日 官報)


北海道旧土人保護法を公布(明治32年8月2日 官報)

保護法に伴う予算問題(明治33年3月30日 時事)

アイヌ地紛争事件
近文原野を取り上げ、大倉組に払い下げか(明治33年4月25日 時事)

近文問題は園田長官の失政(明治33年4月25日 日本)

近文問題に関する園田長官の談話(明治33年4月26日 時事)


大倉と三浦暗躍、「転地願書」に捺印さす(明治33年4月30日 毎日)

上京団、枢密院議長に陳情(明治33年5月1日 時事)

「三浦不起訴」の検事正、不可解な発言(明治33年5月1日 毎日)
近文原野はアイヌの土地と決定(明治33年5月6日 時事)

近文問題解決に近衛篤麿ら尽力(明治33年5月7日 時事)

上京中のアイヌ人、内務省の意向を確認(明治33年5月21日 毎日)

近文問題で内務省が園田長官を譴責(明治33年5月23日 報知)

旧土人保護法に基づく学校教育を計画(明治34年1月6日 時事)

近衛篤麿らが実業練習所を設ける計画(明治34年2月9日 時事)

学校建設地は室蘭に決まる(明治34年5月12日 東京日日)

白老病院開設(大正11年3月9日 北海タイムス)


アイヌの児童教育規定を廃止(大正11年4月28日 北海タイムス)


白老のアイヌ福祉施設と病院(大正11年8月13日 北海タイムス)

個別の救済は完了していた

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/058/0020/05805090020021c.html
第058回国会 内閣委員会 第21号
昭和四十三年(1968年)五月九日(木曜日)


上記の国会 内閣委員会での答弁の一部を掲載します。


○受田委員 ~次は、今度の改正法案の内容に触れてまいりたいのでございますが、たいへんこまごまとした、すでに片づいているような問題を取り上げておられる。その一つに「北海道旧土人に対する就学資金および不良住宅の改良資金の支給に関する規定を削除すること。」とあるが、これは北海道旧土人保護法の一部改正ということにもなってきておるのでございまする~

○受田委員 ~ここに掲げてある整理の対象になっている旧土人の就学資金、不良住宅の改良資金、こういう規定を削除するということでございますが、この支給規定は昭和十一年ごろまでに適用したのであって、その後はもう現実に死文化されておると私は聞いておるのです。それにかわって生活保護法の制度による教育扶助、住宅扶助、あるいは不良環境の改善というようなところへ目標を変えておられるわけです~

○曾根田説明員 確かに御指摘のように法律そのものが非常に古い法律でして、相当多数のものがすでに戦前から死文化しておる。そのこと自体が問題だとおっしゃられるとそのとおりでございますけれども、特別といいますか、あまり外から問題にされることも実はなかったわけですから、今日まで至ったというのが実際でございます。


このように、昭和43年(1968年)という、今から50年も前に、既にアイヌへの個別の助成は不要となり、今後は生活保護法の制度に基づいて扶助や改善を行う旨が答弁されています。
また、国会では、アイヌ個別への助成(旧土人保護法の規定の一部)は、昭和十一年頃までの適用であって、既に死文化している、と説明されています。

では、その後のウタリ協会・アイヌ協会が認定し、推薦状を発行する事で受けられていた修学助成金や、札幌市はじめ道内各地で返済が滞っている住宅資金援助とは、一体何なのでしょう?

国会答弁では「既に終わった制度だから、廃止して今後は生活保護法の制度に従う」と在るにも関わらず、自治体レベルで実施していたのでしょうか?